元気ですか

 今更だ。もう今更、どうしようもないことなのは解りきっている。それなのに私はただ、薄桃色の便箋にペンを走らせ、書き損じては丸めて捨てる行為を繰り返していた。
 今でもあの人が好きかと問われれば、私はきっぱりいいえと答えるだろう。三人の子供はみな成人して独立し、定年を迎えた夫は、働いていた頃より生き生きとして、釣りにドライブ、草野球と、大好きな趣味を精力的にこなし、今は疲れて死んだように眠っている。
 虫の鳴くかすかな声が、薄く開いた窓から流れ込んでくる。薄桃色はほとんど、半分ほどになってしまっていた。もちろん、と私はそこで思考する。もちろん、夫を愛していないわけではないし、今の幸せな生活に不満などない。
 またしても書き損じてしまった薄桃色を千切り取る。こうやって便箋を千切り取る度に、あの頃よりもずっとくたびれ、乾いた手が目に映る。あの頃のように、白くもなければ柔らかくもない手。あの人は、年を取ったねと笑うだろうか。
 若かった。ただひたすらに若かったあの頃。私は今のように、妻でも母でもなく、ただのちっぽけな娘だった。そんな遠い昔に愛した人に、今更手紙を書こうなんて。ただの酔狂なおばあさんだ。
 あの人は、きれいな手をしていた。細い首をしていた。目は、いつも影を宿した、美しい色だった。哀しい人だった。ひたすらに、哀しい人だった。私は彼と一緒にいると、いつも一緒に哀しい気分になった。しかし、愛する人と感情を共有することは、私にとって途方もない幸せだったのだ。
 いつも哀しい顔をしている人だった。しかし、彼は別れを切り出すとき、まるでこの世の終わりのように哀しい顔をしながらもどこか、ほっとしていた。
「あなたのことを愛していないわけじゃない。でも、僕はもう、あなたとは一緒にいられなくなってしまった」
 そう言い残して、彼はいなくなってしまった。私の前から、私の世界から、永遠に。
 私は今更、何を書こうというのだ。この、宛先さえ分からぬ手紙に。
 どうして私を捨てたの? 違う。彼は私を愛していた。彼は精一杯、私を悲しませないための方法を選んでくれたのであり、仕方のないことだったのだ。
 あの頃はよかったわね? 違う。今あの頃に戻ることができると言われても、私はちっとも嬉しくなんかない。
 薄桃色は、とうとう最後の一枚になってしまった。私はその一枚に、ただ一言だけ書き付ける。そう書けば彼が、今も本当に元気でいることができているかのように。そしてなお、ただ彼が今も幸せであればよかったのにと、かなわない願いをはせるように。


「元気ですか」